曹洞宗 清元院

清元院ものがたり

 今から600年ほど前のことです。備前の国より「池田七郎定久」という武将がこの地に来られ、大仏山(清元院から真西の山)の山頂に城を築き、「大仏山真道成仏の城(だいぶつざんしんどうじょうぶつのしろ)」と名付けました。その後、永享年間(1430年頃)の合戦で落城し、七郎定久は高木家(旧以西小学校前の池田家)にしばらくかくまってもらい、再興の時を待っていましたが、縁あって高木家の婿となり池田の姓を名乗りました。

 そして合戦で命を落とした家来と高木家のご先祖の霊をとむらうため寺院の建立を発願して、大仏山から見下ろす向かいの山すそにこの寺を建て、退休寺(旧中山町)西来院三世「無塵良清(むじんりょうせい)大和尚」を開山としてお招きし、山号を「大梁山」、寺号を「清元院」と名付けました。今から580年ほど前のことです。以来、歴代16代の住職を数え、現在17世に至ります。

 開基(=最初にお寺を建てた人)の七郎定久は、戒名を「法経院華翁清大居士」とおくられました。池田家は開基家(お寺を開いた家)として現在位牌堂正面の観音様のすぐ右側に祀られており、明治20年に船上神社の宮司に任じられるまで役450年間、筆頭の檀家として清元院を護持して頂きました。

 清元院は教育の寺で、江戸時代には住職が師となり寺子屋として手習いを行い、学制発布により明治6年に清元院を校舎として今地小学校(のちの以西小学校)が開校しました。明治26年には以西尋常小学校と改称し。当山13世白翁月珊大和尚(大蔵月珊氏)が第4代校長となりました。さらに16世、17世も教鞭をとり、同時にお茶・お花・和裁など子女教育も行われ、長きにわたりこの地の教育に尽力しました。

清元院ものがたり

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