《山門》
建築年代不詳。山号額「大梁山」を書いたのは、江戸後期に「曹洞宗の四天王」と称された名僧「霊潭魯龍」(1746~1805)。額には龍文霊潭と名が記されており、寛政12年(1800)から4年間、山口県の龍文寺の住職を勤めていた時に書かれたものであることが分かります。
現在の住職が、これからの時代を生きる清元院の使命を「縁をつなぎ安心をとどけるお寺」と看板を掲げています。
《鐘楼堂》平和の鐘
清元院の鐘楼は、太平洋戦争中の昭和18年に国策により国に献上して姿を消しました。その後、瀬戸内海から引き上げられた戦艦「陸奥」の青銅遺材を用いて、昭和48年に再鋳造し、「平和の鐘」と名付け、清元院に再び鐘の音がもどってきました。
《本堂》(※冷暖房完備)
江戸時代後期、黒船来航の7年前(1846)頃の建築。元は茅葺(かやぶき)屋根であったが戦前に屋根をすげ替え瓦葺に。法要・供養・学び・イベントの場として、清元院を訪れるに親しまれています。
(本尊)釈迦牟尼仏 脇侍:文殊菩薩(右)普賢菩薩(左)
本尊本体は、開山当時(室町中期)の作と伝わり、光背と台座は江戸時代中期の作。光背には、江戸中期の鏡師「松村因幡守藤原重義」作の銅鏡が埋め込まれている。
(本堂:天井絵)画名:「龍渓図」玉雲斎:作(江戸時代後期の水墨画)
本堂は、住職が仏に代わって仏法を説き示す場として、寺院の中で最も重要な場所で、龍はそこを守護する役割を果たしています。また、龍が雲を呼び雨を降らすといわれることから、本堂に集まった人々に、仏法の雨(法雨)が降り注ぎますようにとの願いを込めて描かれています。また落款は朱筆で「一心不乱」と書かれていて、龍渓図を描いた時の心境をうかがい知ることができます。
(本堂内陣:天井格子絵)江戸時代後期 ※作者不詳
蓮の花、牡丹、孔雀、雷神、中国の麒麟など32枚の格子絵。岩絵の具で描かれており、今も鮮やかな色彩を保っています。1枚1枚に当時の寄付者名が記され、資料としても貴重です。
(本堂内陣:組木細工)江戸時代後期 ※大阪泉州の宮大工の手による
本尊周辺の組み木は、泉州(現在の大阪府岸和田市周辺)の宮大工の作。釘は使わず、丁寧に刻んだケヤキを組み合わせ、大変手の込んだ細工です。右の龍は口を開けた「阿(あ)」、左の龍は口を閉じた「吽(うん)」。合わせて「阿吽の龍」を配置して、雲や雨を呼び、本尊様を火事から守る願いが込められています。
《開山堂》
平成元年建築。中心に開山の無塵良清大和尚像、右に大本山永平寺開山の道元禅師像、左に大本山總持寺開山の瑩山禅師像を配置し、周りを歴代16人の清元院住職の位牌が並んでいます。清元院を開山した初代和尚を安置していることから「開山堂」と呼ばれます。
※開山大和尚像は昭和24年、境内のハネリの木を用いて、仏師「森下浄心」によって彫刻されたものです。
《位牌堂》
平成元年改築。中心に聖観世音菩薩像(倉吉仏師:仲倉裕朋氏1949~2017作)を安置。東西南北に四天王を配置。
先祖供養、永代供養の場としてだけでなく、静寂な空間として坐禅会や団体参禅の坐禅堂としても親しまれています。
《書院(茶所)》(※冷暖房完備)
「古流・学問の庭」に面した、落ち着きと癒しの空間です。各種イベント後のお寺カフェや法事や葬儀後の食事会場としても利用されます。(椅子席:30名程度)
《離れ》(冷暖房完備)
「古流・学問の庭」に面した、少人数向け癒しの空間です。(椅子席:8名程度)
《茶室・茶庭》
日本画家で、庭園にも造詣の深かった16世住職と、清元院のある宮木集落の数寄屋大工 山根茂徳氏によって設計施工された茶室。この地の材木・朽ち木・古民家材・石・樹木を使い、5年の歳月をかけ昭和50年に完成した。